300ページを越える力作。単なる流行を追った他著とは異なり、大きな時代の潮流の中でソーシャルメディアのプラットフォームを論じた1冊になっています。2000年代最初の10年で最も影響力があったウェブ本が『ウェブ進化論』(梅田望夫著)だとすれば、2010年代を代表する1冊が『キュレーションの時代』と言えるのではないでしょうか?
キュレーションはウェブ進化論の次のフェーズへ
冒頭で、同じちくま新書から出版された『ウェブ進化論』に言及したのは、ひとつの理由があります。それは『ウェブ進化論』が示した世界観と、『キュレーションの時代』のそれが実に対照的だからです。敢えて単純化して言えば、前著がGoogleが主導する情報検索のテクノロジーに焦点を当てたのに対して、後者は情報を切り出す「人」に重きを置いています。
『ウェブ進化論』では、ゴミ(石)と宝(玉)が混在する(=玉石混交)ウェブの情報の中から、的確に「玉」を選り分けるGoogleのテクノロジー、ひいてはその企業文化・世界観に大きな信頼をおいていました。Yahoo!とMicrosoftによるポータルサイト競争が行われていた1990年代から大きく進化して、テクノロジー中心で、ある意味「民主的な」ウェブの世界が立ち現れるのではないかという期待感が高まったのを記憶しています。それを、ウェブの業界の人たちは「Web2.0」というバズワードで長年表現していました。
それに対して、『キュレーションの時代』が描き出しているのは、それとは別の方向。佐々木氏はキュレーションを「無数の情報の海の中から、自分の価値観や世界観に基づいて情報を拾い上げ、そこに新たな意味を与え、そして多くの人と共有すること」と定義し、Googleが徹底的に排除してきた「人」の役割を重視しています。
大切な情報をもたらしてくれるのはアルゴリズムではなく人であるということを実感させられます。本書のイントロダクションで紹介されている、ジョセフ・ヨアキムという無名の画家と、それを発見した一人の牧師という二人の関係。また、HMV渋谷店の閉店の理由を店員の「質」に求めた、とあるブログからの引用。本書では、コンテンツor情報を収集し、意味付けして共有する「人」の存在が強調されています。
Googleは万人に対して全て同じ回答を提示するのに対して(最近ではユーザーごとにカスタマイズをした結果を出すこともありますが精度が悪い)、キュレーションの時代では、ウェブ上での人間関係によって得られる情報が異なることもあるわけです。
「主体性」に再び注目が集まる
『キュレーションの時代』を読んで感じたもうひとつの点。それは、Googleが徹底的に排除してきた「主観性・主体性」(subjectivity)が、キュレーションの時代には求められているということです。(本書では主体性・主観性という言葉は使われてませんが)
先にも述べたとおり、Googleは検索エンジンのランキングファクターから「主観」という要素を一切排除して、アルゴリズムにより「客観的」にコンテンツを選り分けています。もちろん、それはそれでとても重要です。実際に私も毎日のように多くのクエリーをGoogle先生に投げつけています。しかし、そこには「人」という要素が「ノイズ」をもたらすという人間観があるように思います。
他方、キュレーションの時代は、人と人は共感や価値観で結びついて、むしろそうした「ノイズ」さえも積極的に受け入れているように感じます。様々な要素が結びついた雑多な「場topos」や「圏sphere」がダイナミズムを形成し、新たな価値観や関係を生み出すシナプスのような役割を果たす。ソーシャルメディアプラットフォームがもつそんな可能性を垣間見るような思いです。
ただ、この「主体性」という言葉は、ある年代の人にとっては抵抗があるようです。というのも、この言葉は「戦後民主主義」が信奉したものったからです。個人的に世代論は好きではないですが、50代くらいの人たちに抵抗感が強いように思います。なぜなら、彼らは「戦後民主主義」をある意味で否定してきた面があるためです。確かに、戦後民主主義派が言う「主体性」という言葉には「日本社会の民主化を推進する主体」という、どこか道徳性の強い印象があります。さらに、「日本社会」というナショナルな空間の存在を自明視しているようなところも、グローバル化した現代から見ると違和感があります。
しかし、ナショナルな空間を前提としない主観性・主体性のあり方は可能です。むしろ、情報を発信する人と受信する人がフラットでつながる社会においては、コンテンツや情報を発掘して意味付けする主体性が求められるのだと思います。
時代を切り開くのはいつでもキュレーター
私が学生時代から尊敬している学者に、私の「師匠」の師匠であるミッシェル・フーコーとエドワード・サイードがいます。
彼らは佐々木氏の言う独自の「視座」を持っていました。視座とは単にものごとを見る立ち位置というだけでなく、世界観や価値観といった「人の考え方」を含むものと説明されています。
フーコーやサイードは、自分たちの視座を知識生産の場に接合して、正当なアカデミズムの言説を大きく揺さぶりました。それまで「異常」「野蛮」とされた文明社会の「アウトサイダー」(=他者)の視点から、エスタブリッシュメントの世界を逆照射したのです。すると、排除されていた人たちが、人間性という観点からみると実は私たちと何ら変わらないことが明らかになり、逆にエスタブリッシュメントこそが異常とさえ思えてくるのです。
佐々木氏は本書の中でキュレーターが「アウトサイダーアート」をメインストリーム押し上げた経緯を紹介していますが、その意味ではフーコーやサイードもキュレーターの要素を多分に持っています。(実はアウトサイダーアートを見出したキュレーターにフーコーやサイードは大きな影響を与えていたりします。)
これまで「ささいなもの」と見過ごされていた物事を、独自の視座で意味付けをして世界を再編成する。そういう才覚を持ったキュレーターはどの時代にも存在していたわけです。
では、ソーシャルメディアプラットフォーム以前と以降で何が違うのか?
それは、ソーシャルメディアでは、日常生活を送る生活者の誰でもがキュレーターとして影響力を持ちうるということです。マスメディアが隆盛を極めていた時代には、「消費者」にカテゴライズされて、受身の存在でしかなかった個人。情報の受け手と発信者がフラットにつながる世界においては、その個人の問題意識や価値観が共有されて拡散していくことも十分に予見できるわけです。たとえ、小さな圏域でしかなくても、そのなかで生活者同士が結びつき、主体性を持ったひとりの生活者として向きあうことができる。そういう世界が生まれているわけですね。
キュレーションは「ハック」できる「スキル」ではない
私が大学院で修士論文のテーマを考えているときに指導教授から言われた言葉があります。「これを考えていないと生きている意味がないと思えることを研究しなさい」。日本の文系の学問の世界では従来、ヨーロッパの学者の著作を研究して2~3冊の本を書き、運がよければ研究生活の最後にその学者の研究室で一緒に写真を撮ってもらうというような人たちも多くいました。「ヨーロッパの学者」の「視座」を研究するのはいいけれど、修士論文を書くことの異議は独自の視座をもつ人間になりなさい、ということなのだと思っています。
先に紹介したフーコーやサイードは独自の視座を持った学者でした。その視座には彼らの生き方や価値観が反映され、生涯をかけてそれに取り組んでいました。
佐々木氏が言う視座はそこまで重いものではないかもしれません。しかし、キュレーションという行為が「ハック」して「スキル」としてファッショナブルに身につけられるようなものではないことは確かです。(それは、本書の中で紹介されている優秀なキュレーターの例を見れば分かります)
それは、単なる「まとめ」記事を書くスキルとは違った、もっと人の価値観や生き方と結びついたものと言えるのではないでしょうか。
なんだかまとまりのないことを書いてきましたが…このブログの読者の方々に期待されていることの一つは、この本とノマドワーカーってどう関係あるの?ということでしょう。
既存の組織のあり方から離れてノマド的に生きるためには、自分だけの視座を持ち、それに共感してくれる人たちの圏域を生み出す(もしくは見出す)ことがとても大切なんだと思います。それは、他者に依存しない(あてにしない)生き方をする上で重要なことではないでしょうか。
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<追記>
佐々木俊尚さんからTwitterでコメント頂きましたアルゴリズムのWeb2.0から、ソーシャルを軸とした次の時代へ。その転換点がいま。良い書評ありがとうございます。/【書評】キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる http://t.co/TG2DT3l